昭和五十六年五月三十一日 朝の御理解
御理解第三十七節 「生きている間は修中じゃ。丁度学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい。」
何の道でも修行となるときりがない。限りがない。いや名人達人と言われるようになればなる程、もうそれでよいとだろうとまあ思うのですけれども、そうなればなる程限りがない。
これは何の稽古でもそうだと思うです。それを極めていこうとすれば限りがないものだと思うです。そこに言うならば、その何の稽古をさせて頂くでもそれが苦にならず、有り難い、楽しいもの、とりわけ信心においておやであります。
信心の道というのは限りがない。この位でよかろうという事はない。昨日一昨日から青年教師の信心実習が福岡の高宮教会であって、まあ最近大変変わった教会として全国から注目を受けておられるお教会です。丁度ここと前後してでしたでしょうけれど、見事な見事なというよりか、大変珍しいお教会がやっぱり五億からのお金がかかったそうですが、まだ先生は五十余りの若い先生ですけれども、なかなかお父さんがやっぱお徳を残しておられたという事もありましょうが、その二代もなかなかしっかりしておられます。
そこで、あのここから幹三郎が参りました。帰りましてから、まああちらのもようを聞かせてもらったんですけれども、写真なんかでは、見ておりましたけれども、本人幹三郎が言っておりましたが、もう写真よりも実物の方が素晴らしいお教会だと見事な教会が出来ておるという事ですが、そこの教会長先生を講師にしてまあ二日間にわたってのお話しを頂いてきたわけですけれども、先生が言われるのにまだ借金が三億残っておるという。けども私はその借金をする事が大変好きだと、まあ好きだという事は借金しとる事が好きというのでもなかろうけれども、借金でもやっぱり何といったって三億といや大金ですから、まあ云うならば、神様へ向かう迫力がね、違うというわけでしょう、ね。ぐずぐずしておられん、一生懸命ならにゃおられん。為にゃ信者が助からにゃならん。為にはやはり普通ではできないような修行もまあなさらなければならんわけです。
そういう意味でまあ借金があるという事は有り難い事だ。という事をまあ聞かせて頂いたすぐその後に、宮崎からというて前の日から前晩から参って来ておられたそうですが、昨日丁度その後にここに泊まって居られたそうですから、まあ奥さんが商売をしてそしてもう何もかも無くしてしまうような結果になっておる。御主人もその為にお仕事が出来られないような事になってもう兎に角もう、本当に家内の持ちようが悪いとこんな事になるというような感じのまあ御主人のお届けでしたけれど、丁度私がその事を聞いておる時でしたから、例えばそういうなら貴方の所でも大きな借金をまあそりゃ奥さんの仕打ちが、悪かったとか失敗しなさったとかという事であろうけれども、それが反対になら奥さんの商売で当てた、繁盛したと言う事になって居ったらとても貴方方が宮崎から合楽までもお参りしてみえませんよと、ね。どうにも仕様がない、だからお話しを聞き伝えて合楽にまでもお参りして来なっさった。そして今私が子供から聞かせて頂いたのですけれどもと言うて、その高宮の先生の話をしたんです。借金が大きければ大きいだけ、言うならば弾みがつくね。おかげで信心が出来る。その借金を重みに感ずるような事ではいけませよというて、まあ高宮の先生のその借金の在り方、いわゆる受け方というようなそれもおかげで信心に弾みがついてと言う事なのですけれども。
その話を聞いておられたらね。もう二人の表情が変わってくるように、はあそうですね、本当にこんな借金をかろうてから、もう家もそれこそ屋敷も無くすような事の結果になって本当に難儀な事である。その為にも家内夫婦別れもしようかと言う所まで話もいっとったらしいですけれども、そういう頂き方があるなあ。為にはなら信心に一心にならなきゃならない。
神様にお縋りする事によっておかげを頂く為にじゃなくて、その事によって信心が出来るというそのまあ借金が好きだと高宮の先生が言われたというようなおかげを頂いたら、世の中はどんなに楽になるだろうかと思いますね。信じんて素晴らしいです。本当の信心というのは難儀が有り難くなってくるんです、本当に。
まあそういう所からお互いの信心がおかげを頂きたいから、そのおかげを頂かねばならない難儀な問題を通して信心が分からせてもらう事が有り難いね。事実その事によって力を受ける、徳を受けるという事にもなるのですから、そこの思い方、頂き方が変わってこなければ、その事を昨日又研修の時も話したんですけれども、高宮は三億からの借金、まあ借金を持っておられるというが、合楽も同じ事だ。けれども私は借金がどれだけあって、どれだけ月々減っていきよるかという事がよく分からんから昨日も聞かせてもらったけれども幹三郎も知らんというですけれども、私の場合は借金を借金として一つも借金と思うていないのでしょう。気にならない。そこはどこに違いがあるかと、あんた達は思うかというて、まあ昨日先生方にその事を皆に聞かせて頂いた事ですが皆さんはどうでしょうか。恐らく合楽ではやっぱり三億からあったでしょうけども、もう二億位になってるんじゃないでしょうか。減ってるんでしょう。くわしくは私も知りませんけれども、ね。
私の場合はいっちょんその、その借金のおかげで信心が出来るという事ではないのです。全然それを難儀とも借金とも感じてないからです、ね。高宮の先生は借金を感じなさる。もう話されたそうですが、そん為に家内がノイローゼになるごと心配しましたというような話も聞いて来とりました。所がね、私の方の場合は家内やら子供達でも、ほりゃ親先生がいらんことを思い立って三億も借金作ったからと云うて誰ん心配しよる風じゃないです。 又、私はなら御造営中にお金が沢山あっても足らんような時だから始末倹約せにゃといったような事も家族の者に云うた事もありません。
まあそれと同じような意味だけれどもねと云うて話した事ですけれども、あの時代に、あの四年半の時代にですね。いわゆる合楽理念の母体であったあの四年半のあの時代に、もうそれこそ椛目の宮崎さんあたりが御承知のように、もうそれこそいつも十人位の棒にも箸にもかからんような病人がおりました。ね、ですから私共の子供達は、そのそりこそ肩で息するようなもう本当に骸骨のような、もうほとんど肝病が多かったですね。ですからあの人達が皆一人一人子供達を受け持ってから育っておりますよ。はあもうそりこそまああの時分はまだアスファルトでございませんでしたから、あのもうここは自動車が行く、どんなにお掃除をしとっても一ペン自動車がパアッと通ったら廊下がざくざくするごと埃がするという時代でした。蝿といやすぐ裏の篠原さんという所に牛が居りました。すぐ前に豚を何匹も飼うてございましたから、夏ともなるとそりゃ蝿がもう私共が、私がこうやってお結界奉仕しとりますと汗がこう出ますからね、背中に蝿がいっぱい止まっておりました。黒いものだからあまり目立たなかったけれども、蝿の糞で背中はいっぱいでした。もう不衛生といや不衛生、汚いちゃ汚い、ろくそなかといやろくそなかでしょうけれども、あのざくざくの云うなら、お広前では、はあ合楽の、いや椛目の金光様はもう汚いとか不潔とかとても、えずか(恐いの意)ごたる病人ばかりこう居るというふうに皆が感じなかったという事をあらためて昨日思うてみて話した事でしたがね。なら家族ぐるみでその気になっておったという事は勿論ですけれども、こんな病人を預かりなさっちゃ困りますよと云う者が一人もいなかった事です。全然感じさせなかった。あの時分から皆さん信心が続いておられます方がたくさんおられますからでしょうけれども、ほんにあの時分にあげな病人の中にお参りをしてから、うつるだんせんじあろかと思うた事もなかったでしょう。まあそういう中に思わせなかったのはどういう所にそれがあったんだろうか、ね。まあ様々な難儀を難儀と感じさせなかったと云うのは、私自身が本当に感じないだけではなくて、その事に対してもういよいよ有り難し、勿体なしの信心の出けておったから、家族の者でも、云うなら参って来る御信者さんにでもそれを感じさせなかったのじゃないでしょうかね。そう思います。云うなら今申します借金の場合でもそうです。私は借金を負うという事が好きという事。私は好きじゃないけれども、ね。それを借金を借金と感じていないという事なんです。
そしてあらためて玉水教会の初代が云うておられたというお商売人がですね。主人は神様だとね。そこのお店の主人は一番番頭さんであり、奥さんは女中さん頭として一切を神様をシンにした生き方という事は、これは簡単なようだけど大変な難しい事だなあと昨日あらためて気付かせてもらった。まあそうい事を話ながらね。修行生の方達に、高宮の先生は借金がある事を有り難いと、おかげで云うならば信心が出来るんだと、そしてならば、借金が好きだという所まで心が進んでおられる。
合楽の場合は私がその借金がある、同じようにやっぱここも六億からかかっとりますから、同じような借金をかかえておりますけれども、かかえておるとも借金とも全然感じてないというのは、どこにそういうものがあるだろうかというて、皆に私が尋ねました。皆さんどう思われますか。神様を信じておられるからだというような意味の事が皆殆どでした、ね。借金を借金と思ってない。云うなら玉水の先生じゃないけれども、云うならば繁昌する事も神様の店が繁昌するというてお目出度うございますとこう言う。
借金でも自分借金じゃない。神様が借金を持っておって下さるのだという考え方。だから考え方ではない。それを本当にそうだと感じるという事はこりゃもう、云うならば大変難しい事だなあ、玉水の今頃玉水、この五、六年も前だったでしょうか。吉井の熊谷さんがまだあのう御子息が大阪に勤務しとられた時分でしょう。大阪に行かれた。それで玉水教会を尋ね求めして参られた。沢山のお参りに驚かれた。そしてそこの先生をつかまえて話を聞かれた。ここでは例えば神様が御主人だと言ったようなそんな事を、そんな話をしたらそこの先生が言われた。もう今頃そんな事流行りませんと言わっしゃった。初代が言うておったそういう信心はもう今は大阪の玉水にはありませんと。私はそれをどうしてじゃろうかと思いよったら、昨日改めてね、その筈だと思いました。そういう信心、初代がそういう信心を頂いとられたからこそ、云うならば分かっただけで成る程主人が中心は神様だという事を分かっておられたからこそ、それがおかげを受けたんです。皆がけども今はそれではもうおかげは受けられなくなっとるのが、玉水だろうというふうに、だから大変難しい事ということと昨日改めて気付いたんですけれどもね。
皆さんが皆それは神様を信じる力が強うあんなさるからだろうと、こうまあそういやそうだけれどもね。どういうような心になったら借金を借金ともせずじゃなく、それを借金と感じない。神様が見ておった下さる。神様がここは建てなさったのだから、だから銀行から借りたとも思うてない。云うならば銀行のお金でも神様のお金だとこう思うとる。だからそう思うとるからではなくて根本の所、ぎりぎりどこか一番最後に竹内先生がこう申しました。親先生それはね、云うなら家蔵財産その物にいつものしをかけておられるからではなかろうかと言うんです。そうなんです。ならここに家蔵財産があったとしてもそれは、私の物とは一つも私が思うておらない事。もし神様が要るとおっしゃれば、いつでもその家蔵財産にのしをつけとるというよりも、のしを付けるち言うとこちのもんのごたるからね。まあ云うならばいつでも神様がお使いになろうと思えば、これをどんなふうにお使いになっても家蔵財産にのしをかけておられるからそういう、だから確かにそうだよというて話した事でした。だから、そんなに難しいんです。
借金を借金とも思っていない。というて合楽の場合はあちもこちも銀行から、借ってくれ借ってくれでしたから、こんどの度は。だから借りるという事ではあるけれども、だから利がどれだけかかりよろうが、どれだけの沢山の大金を借らせて頂こうが借ろうが神様の物を使っとるだけであって、そこに区別がない。自分も勿論さらさら自分の借金とも思ってない。だから自分の財産とも思ってない。ね、云うならば我情を取り我欲を取った姿の中に私は、云うならば難儀のおかげで信心が出来ますという所をこえたものがあるんだと思うんです、ね。だからなら難儀を感じんなら信心がゆるむだろうというのじゃなくて、もうそこまで行きますと、もう今日の御理解じゃないけれど限りない、云うならば一生が修行というのは、成る程我情我欲を取る事の為、どんなに美しゅうなったと思うてもよくよく自分という者を見てみると、いろんな場合にはあこれが我情だなあ、これが我欲だなあ、なんちゅう自分にゃこんな汚いものがあるというふうに分かってくるのですからね。成る程一生が修行だという事が分かります。
信心の焦点はそこでしょうが、我情我欲を離れて真の大道を開き見とこうおっしゃる。真の道がいよいよ分かる為には、いよいよもう自分には我情はない、我欲はないと思うておってもその事に取り組ませて頂いたら限りがない。そして世の中の難儀というものは無いという事にもなってくる。その話を聞けばその通りですかれども、それを自分の身に心に実感するという事はです。云うならば竹内先生が言うように、家蔵財産にのしがかけてあるから、例えばそれが借金になっても自分の借金と思わんですむ、云うならばまあ本当の助かりと云うのがそこにあるのじゃないだろうかと思うのです。信心の焦点はそこなんです。 なら昨日の、昨日もやっぱここでしたかな。まあ御理解頂いとりますように、兎に角この世にはね、云うならばいよいよあの世に持って行く事の為の力を光を頂く為に此の世があるんだというような御理解を頂きましたね。そういう手立てというのはどういう事かというと、人間の内容の中にある我情である我欲である。それに取り組む事ですから、どんなに名人達人と言われるようになってもです、限りがないのです。ね、例えばなかってもそれを広く大きくしていこうというのですから、限りが無いのです。そして、稽古さして頂くのが楽しみ。椛目の時代に久保山先生という方がおられました。高松和子先生のお父さんです。ここで御理解集を書き始められた一番始めの方です。もうそれこそ大変な達筆な方でしたが、いつも習字の稽古、暇があるとあの筆握って稽古された。もうこれだけ立派に書きなさって稽古はいらんごたるけれども、もう限りがありませんち。止めると手が落ちる、そして少しづつでも上手になっていくという事の為にはもう限りが無いというふうに、言うておられたが同じ事です。信心も同じです。
少し楽な方へ心を向けますとすぐ手が落ちます。不思議です。それを落ちないように思うておるのは慢心です。それは云うならドライな考え方です。割り切っているからです。限りないおかげに云わば挑戦するならば、限りない自分の内容、人間内容に取り組まなければいけない。それは私共の内容の中にある我情である我欲である。我が身は神徳に中に生かされてある。それが分かる。借金も借金と思わない。どんなに難儀であっても難儀と一つも思わない。力が出来てきたから、それが支えられる事が出来たんでしょうけれども、これが又限りがない。これを広く深く大きくと云うたら限りがないね。云うならば、がめついまでに信心の意欲というものを持たせて頂ける信心。それには今日はじめの難儀だから、それをおかげ頂く為に参って来た。参って来て分からせて頂いた事は、その難儀のおかげで信心が出来ますという、あの世にも持っていけるという程しの信心を頂く事の為にこの難儀があったという時に難儀に対するお礼が言えれる。そして、今度はその難儀と感じんですむ、借金を借金と感じんですむ世界がある。この世界が又限りが無い。限りがないから又信心修行も限りが無いという事になるのですよね。
どうぞ。